浮靴沢奇談 鉄砲水【第1話 隣の谷】

釣りの小説 鉄砲水 第1話

浮靴沢奇談 鉄砲水

【第1話 隣の谷】

 かねてから待ちわびられていたトンネルの開通で、ようやく往来が可能となった隣県の村には、通称、浮靴沢(ふぐつさわ)と呼ばれる、山深い一本の沢にまつわる言い伝えがあった。
 そして僕がこの話を知るに至ったきっかけも、まさしくこのトンネルの開通にあった。

『靴の浮く沢』なんて、確かに気持ちが悪いナと思うけれど、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)ということでもなく、名前に靴の字が付く沢にまつわる話など、どちらにしても、そう古いことではなさそうで、言い伝えだなんて、なんだか少々大げさな気がした。

 トンネル開通――

「こんな未舗装の急勾配、これでも国道なのだろうか?」そう思いながら、自慢の軽四駆で隣県を目指すも、突然の通行止めであえなく断念。これが俗に言う『点線国道』というものかと、初めてその地図の示す点線の意味を悟ってからもう何年が過ぎたのか、思い起こしてみることさえ既になくなっていた、そんなある日のことだ。
 僕にとって、それは本当に突然だった。

 どうやらあの時に着工中だったトンネルが開通したようだ。僕がラーメンをすするその店のテレビから、背中越しに、そんな報道をするニュースキャスターの声だけが聞こえていた。
 どんぶりのスープを残したままに席を立つと、我ながらのアンテナの低さに呆れながらも、「これは大ニュースだ!」と、家に戻って早速、地図を広げた。
 きっとこの時、僕は何度も何度も、「大ニュースだ!」と口にしていただろう。

 要はこうだ――

 これまで隣県に行くには、とんでもないほど大きく迂回せざるを得なかった訳で、それに、あの山道を昔の僕のように行き止まりまで行ってみるようなモノ好きも、そうそういるとは思えなかった。
 こちら側には大した河川がある訳ではないものの、だからここが一番肝心なところなのだけれど、もし、トンネルの向こう側に雰囲気の良い渓流でもあろうものなら……
 これまで人目にとまりにくかった川なら、イワナやヤマメが存分に釣れる穴場が見つかるかもしれない。そう考えていたのだ。

 地図を見る限り、ふもとの村もそれほど多くの人口を抱えているわけではなさそうで、道路事情のほうも、どうやら今までは、こちら側と似たり寄ったりといった感じに思えた。
 まずは、しめたものだと言えるだろう。

 肝心の川は……
「あった。」少し細い谷川のようだった。
「釣り支度はせずに、下見のつもりで一度行ってみよう。」最初はそう思ったものの、夜になって急に気が変わった。渓流用のルアーケースをベストのポケットに入れ、ロッドは短めのものを1本チョイスした。リールには少しくたびれた釣り糸が巻きっぱなしになっていて、あいにく『換え』は切らしていた。

 翌日は良い天気だった。釣り具店が開くのを待って釣り糸を買おうと思っていたが、これも急に気が変わり、そそくさと荷物を車に詰め込み出かけた。

「ホ~ぉ!」長めのトンネルを抜けた瞬間、眩しさの中に視界が広がり思わず声が出る。かなり高い。とても立派なつり橋だ。そしてまた長いトンネル。さぞかし工事のほうは大変だったことだろうと感心すると同時に、「こうやって人の暮らしがどんどん便利になるものだから、イワナやヤマメが減るんだよナ。」などと、今まさにその恩恵を受けている自分のことを差し置いて、そう呟く。

 お目当てにしていた川はすぐに分かった。
 想像よりは少し深めの谷川で、上から見る限り、水系の支流域にしては水量も豊富に見える。
「こいつは凄い。とても良さげな川だ。」

 ――「あぁ、この辺りの人間は、“ふぐつ沢 ”って呼ぶんヨ。」
 そう言いながら、宿のオヤジは口元の金歯をチラつかせた。

 実を言うと、この日は結局のところ、ロッドを振ることがないままに夜を迎えていた。
 あの後、さて何処から入渓して、どこで退渓したら良いものか、駐車スペースもどうしたものか?などとウロウロしている内に、いつの間にか空には厚い雲が垂れ込めて、少し薄暗い感じになって、そこで初めて、「ここは、あまり急(せ)いてもいけないナ」と、冷静さを取り戻したのだった。
 考えてみれば、あのラーメン屋での一件以来ずっと、せっかちな行動をとっていた。

 だから、突然の如くポツリと目前に現れた、その風格のある旅館に対しても、「ン? こんな所に宿なんてあっただろうか?」と、既に今日、何度か周辺をうろついていたこともあって生じたその違和感さえ、「やっぱ俺、少し舞い上がっていたんだナ。」という具合に切り替わった。
 そして、これは地元の情報を収集するにも好都合とばかりに、この宿へと転がり込んだのだ。

「食事、いるの?」
 飛び込み客だというのに、飯にありつけるとのことで、とてもありがたかったが、「客商売なのだから、もう少し愛想良くできないものか」と、目も満足に合わせて来ない、そのオヤジの態度には少々怪訝な思いでいた。

 風呂に浸かると夕食までの時間をゆっくりと過ごした。
 風呂は、家族風呂のようで小さかったが、それでも驚くほど立派なヒノキ造りで、とても気分が良かった。

 その後で、今いるこの大広間に通された訳だが、客は僕だけで他にはなく、この時も宿を見つけた時の違和感と同じ種類の感覚が呼び起こされた。

 頼んでおいたビールは、例のオヤジが運んで来た。
「お客さん、トンネル使われた?」
「もはや戦後ではないだなんて、これからはお客、増えるンかねぇ。」
 そう話しかけて来たオヤジに対して、「おかしなことを言う人だ」とは思ったけれど、僕もこれ幸いとばかりに話を切り出した。

「ほう、釣りですか。」
「あぁ、この辺りの人間は、“ふぐつ沢 ”って呼ぶんヨ。」
 そして、初めてオヤジがニヤリと笑い、口元の金歯をチラつかせたのがこの時、という訳だ。

(even)
【第2話 浮靴沢】へ続く。>>

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