浮靴沢奇談 鉄砲水【第6話 日差しの中で】

 釣りの小説 鉄砲水 第6話

浮靴沢奇談 鉄砲水

【第6話 日差しの中で】

 前回からの続きです。
【第1話 隣の谷】はコチラ。>>
【第2話 浮靴沢】はコチラ。>>
【第3話 河原にて】はコチラ。>>
【第4話 靴の淵】はコチラ。>>
【第5話 鉄砲水】はコチラ。>>

 気付けば車の中で朝を迎えていた。
 昨日のタバコは、シガートレイに挟まったまま火は消えていた。
 どうやら、かなり疲労していたようだ。

 出発の日に、トンネルのかなり手前のコンビニで買った、食べ残しのクロワッサンはすでに湿気を帯びて、別の物と化していたが、それでもそれがとても美味く、熱いコーヒーが恋しかった。
 それから、そんな自分を感じることができるのは、何だかとても幸せだと思った。

 車を降りて、きょろきょろと見回してみたが、辺りには何もなく、やはり宿はもう少し別の場所のようだった。
 大きく深呼吸をした後で、またタバコに火をつけた。
 煙はまっすぐと空に向かってのぼって行った。

 川風は好天の上昇気流で吹き上がり、逆に悪天候に向かえば吹きおろすという。
 あの谷も今日は穏やかなのだろうか。

 それにしても、恐ろしい体験をした。
 靴でも枯れ葉でも、そんなことは関係ない。
 この地に伝わる、浮靴沢の伝説には、やはり根拠があったのだ。

 ただ、そうなると、今度は翡翠のことなど、それこそ何の根拠すらない、単に釣りを止められて、腹を立てた人間が、自分の行動を正当化する為だけに用意した戯れ言にすぎなかったということになる訳だ。

 それでも本当は、あの淵の中に見た大岩だけは、どうしても翡翠に思えてならなかったけれど、人に対しても、自然に対しても、もっと謙虚な気持ちを持てていたら、初めからこんな目には合わずに済んでいた訳で、そう思うと、これ以上、それを引きずってはいけないと感じたし、引きずれば、また何かが起きそうで怖かった。
 イヤでも引きずることになるのは、『あの声』の少年のことだけで十分なのだ。

 僕はきっと、あの子に助けられたということになるのだろう。
「誰なんだろう。」

 一夜明けた今も、やはり谷の状況を見に行こうという気にはとてもなれない。
 かと言って、このまま家に舞い戻る気にもなれず、まずはもう一度、あの宿を探そうと決めた。
 どのみち、僕の体験を共有できる相手は、唯一、あのオヤジだけのはずで、何かわかるとしたら、糸口もそこ以外には考えられないのだ。

 ところが、だ。
 この後、あまりに容易に多くのことを知り得ることになったのは、何かの因縁だったのだろうか。それとも少年の導きか。

 ふと、同じようにまっすぐ空へと立ちのぼる、一筋の煙を見つけたのだ。
 良く見ると、向こうの草陰に、人がうずくまっている。

「ン?」
 墓参りのようだった。
 しばらく様子を見ていると、その人は、すっくと立ち上がり、持参して来たと思われる手桶を持って、ゆっくりこちらへと歩いて来た。

「ああ、生きておったンね、こんな辺鄙なところで、車の中に人が横たわっているものだから、まさか死んででもいたらどうしようかと、ちょっとだけ心配したヨ。」
 老婆が笑いながら、そう話しかけてきた。

 とても安らげる出来事だ。気持ちが、スッと、和らいでいった。
 ところが、そんなふうに感じることができたのは、それこそ束の間のことだった。

「いやいや、大丈夫でした。死なずに済んでます。」
 僕は、冗談半分に、笑いながらそう答えた。

「浮靴沢に釣りに入って、えらい目に遭いましたけどね。」
「お墓参りですか?」

 途端に老婆が顔を曇らせたのがわかった。

「あんちゃん、今、浮靴沢と言ったんか? その名をどこで聞きなさった?」
「あの沢をそんな風に呼ぶモンは、もう滅多にはいないンヨ。」
「あんた、ここで何しておったンね?」
 矢継ぎ早とは、まさにこのことだ。

「一体どういうことだろう? この辺りの人は、あそこを浮靴沢って呼ぶのではなかったのか? それに、あんな恐ろしい所、浮靴沢以外の何だって言うんだ。」
 そう思っていたが、もちろん例の体験など、信じてもらえるはずもないと思い、沢の名は宿のオヤジから聞いたのだということと、それから、忠告を無視して釣りに入り、少し危ない目に遭って、この場で夜を明かしていたと、それだけを伝えた。

 けれど、老婆のほうはというと、オヤジから聞いていた話のことと、昨日、谷でどんな経験をして戻って来たのか? 関心があるのは、ただただその詳細に尽きるようで、それは、既に何かを悟っているかのようだった。

 僕はオヤジの話、つまり、正体不明の子供の靴を見たものは鉄砲水に襲われるという話と、この話が谷に降りようとする者への抑止力となっていて、被害の防止に一役買っている、ということ、それから昨日は、淵で本当に靴を見たと思ったら、それが枯れ葉で、伝説はともあれ、まさにこれから鉄砲水が襲ってくるのだと思えるような恐ろしい状況の中、子供の気配と共に、不思議な体験をしたのだ、ということを伝えた。

 それから、オヤジの宿はどのあたりにあるのかとも訪ねてみたが、老婆は知らないと答えた。

「ただ、少し話と違ったのは、鉄砲水が来ると教えてくれたのが、少年なのだ。」と僕が続けると、老婆は突然、ポロリと涙を流して、こう言った。

「たっちゃんに会ったんだね。」

 実は、浮靴沢の話には、もうすこし前置きがあった。宿のオヤジの話では触れられることのなかった『靴の持ち主』についてだ。

 もちろん、それは、この老婆が語ってくれたことだ。
 老婆は、以前、この地で長を務めた男の娘とのことだった。

(even)
【最終話 靴の少年】へ続く。>>

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