浮靴沢奇談 鉄砲水【第2話 浮靴沢】

釣りの小説 鉄砲水 第2話

浮靴沢奇談 鉄砲水

【第2話 浮靴沢】

 前回からの続きです。
【第1話 隣の谷】はコチラ。>>

「お客さん、あそこは、よく出水(鉄砲水)があるし、おやめになったほうがいいと思いますヨ。」
  もう一度、金歯が光ると、その後のオヤジは饒舌だった。

 村人の間で、通称、浮靴沢(ふぐつさわ)と呼ばれる、山深い一本の沢にまつわる言い伝えを聞いたのはこの時だった。

 話は概ねこんな具合だ――

 昔、その川のとても大きな淵に子供の靴が浮いているのを、イワナ釣りの村人が見つけたのだという。
 ただでさえ川に子供の靴が浮いたとなれば、「これは、ただ事ではない!」と、誰もがそう思うところだろうが、この川の場合は、時折、鉄砲水が起こる川としても知られていて、普段から人の立ち入り自体が多くはなかったというから、それこそ子供の靴などは、絶対にそこに存在してはならない場所だった。ということになるだろう。

 僕は口に含んでいたビールを “ゴクリ” と飲み込んだ。

 ここまで釣りをしながら上がって来たのだから、何かが起きたなら更にこの上だ。そう思い、慌てて釣り師は背後の斜面から巻こうとして(高巻き:滝などの出現で直登困難な場合に、一旦、谷や崖の上に出て、迂回して更に上流を目指すこと。)、ちょうど崖の上まで上がったところで、そこへ突然の鉄砲水があり、轟音と共に全てを流し去っていったということだった。

 九死に一生を得たその釣り師が村へと戻ると、それは一時騒然となったが、不思議なことには、どこぞの息子が行方不明などというような話は一切なかったのだという。

 鉄砲水に遭遇して、命からがら村へと戻る者はそれからも時々続いて、奇妙なことに、それらの者が皆、同じように靴の話を口にしたので、誰からともなく、あの川のことを浮靴沢と呼ぶようになり、靴を見たものは鉄砲水に襲われるといったような言い伝えと共に、今ではほとんど谷に降りる者は無くなっている。そんな話だった。

 だから鉄砲水が起きる川であるにも関わらず、その被害に遭う者が出ないのは、谷へ降りるものが一人としていないからだということを、最後にオヤジが付け加えた。

「ちょっと、胡散臭い話だ。」本当はそう思っていた。
 靴の浮く沢なんて、確かに気持ちが悪いナと思うけれど、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)ということでもなく、名前に靴の字が付く沢にまつわることなど、どちらにしても、それほど古い話でもなさそうで、言い伝えだなんて、なんだか少々大げさな気がした。

 それに、このご時世、伝説のおかげで人の安全が守られているだなんて、大体、おかしいいだろう。注意喚起の立て札ひとつあった訳でもなかったし、堰堤を作るのがいいかどうかは別として、危ない川がそのまま放置され続けて来たというのも何だか、到底、腑に落ちなかった。
 ましてや、こんな根も葉もない話のせいで、明日の釣りが台無しになるかもしれないと思うと、不安に思う気持ちにも勝り、何より苛立ちを覚えていた。

 喉にもう一度ビールを流し込んだ後、ふと、床の間に目をやる。
 すると、そこに緑色の大きな石の塊が鎮座しているのに気づいた。

「ははァ~ん、コイツのせいだ!」僕は、直感的にそう思った。
 あの金歯はどうやら都合の悪いときに見せる誤魔化し笑顔のようだ。

 先ほどからの違和感の正体が見えたような気がした。
「きっと、アレは翡翠(ひすい)だ。あの谷には翡翠の鉱脈がある。」と。
 僕の目的があの川だと聞くや、途端に愛想良くふるまいだしたオヤジの態度もこれで説明がつく。
 本当は、よそ者に知られたくない情報を隠すために全てが仕組まれているにちがいない。

「よし、行ってやる!翡翠のことは、暇な時にでも、また考えてみるとして、とにかく明日は絶対に釣りだ!」
 そんな風に自分なりの落としどころを都合良く見つけると、すぐに気持ちは晴れやかになった。
 それから、オヤジにはビールを一杯、半ば無理矢理につき合わせて、少し探りを入れた。

 どうやら、入渓点はかなり限られるようで、村はずれの橋の袂(たもと)から降りるのが良さそうだった。
 ただ、そもそも河原が少ない川らしく、釣り上がるのがかなり大変な感じだし、上がれば、例の靴が浮くという大渕もあるのだという。
 だから、もし、押してでも行くと言うのなら、そこから下流へ下って、少しだけ釣ってみるくらいが丁度良いと勧められた。
 勿論この時も、金歯は光っていた。

 下れとオヤジが言うのなら、下るのはバカ者のやることだ。大淵までを遡行してみよう。そこから先は高巻きするしかないというのが先ほどの話だから、退渓するのもきっと、そこが妥当だろう。そう考えながら床についた。

(even)
【第3話 河原にて】へ続く。>>

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